今後の山岳部の在り方を問う

寄稿者:児玉 茂  寄稿日:2025/7/31(会報163号掲載)

 6月2日月曜日の夜に、戸山キャンパスの狭い教室で、昨年(2024年)9月の鈴木雄大君たちによるヒンドゥーラジ・トゥイⅡ峰の登山報告会が開かれた。それぞれのメンバー関係者と山岳部の現役学生が主な聴衆者だった。今や一般的になった鮮明なビデオ画像がスクリーンに映し出され、登攀の模様が良く解った。海外の山岳雑誌などでは当たり前に見る光景である。

 現在彼らが行っている登山の形式は、世界各国の前衛に位置する登山者(クライマー)に並ぶものであろう。ヨーロッパアルプスにおける、いわゆるアルパイン・クライミングである。世界中の各山域にある岩壁や氷壁、そしてアラスカやヒマラヤの大岩壁、大氷壁へとアルパイン・クライミングが展開していったのは1980年代後半頃からで、日本でもようやく最近になってこの形式が一般化してきた。既に日本人クライマーの中からも世界のトップを走る人たちが何人も現れている。

 岩峰の連なるアルプスに登れるヨーロッパ人とは異なる日本人は、いったいどのようにすればヒマラヤの壁を小人数で、短時間で「アルパイン・スタイル」で登れるようになるのだろうか。これには相当の努力、時間や経費が必要になるだろう。そうなると登山というものに集中、専念する他にはなかなか道が開けないことだろう。情熱だけで達成できるものではないからである。

 ここに至るまでの登山の形式というものを振り返ってみると、ヨーロッパと日本とでは出発点から大きく違うわけだが、日本の登山者は1920年代からアルプス登山を目標に、日本アルプスで修業を積んできた。まずはスキーを使った積雪期登山、この段階で積雪期の穂高岳と劔岳にも登った。次の段階はさらに険しいルートの登攀や小人数の氷岩壁の登攀である。早稲田では船田三郎の時代、次いで前穂北尾根を単独で登った今井友之助は、山岳部の精鋭を揃えて瀧谷の各岩尾根の登攀を完成した。それに続く世代は鹿島槍の北壁を目指し、もう一隊は劔岳の西壁に向かい、赤松速雄が小窓尾根を単独で登り、劔尾根はチームを組んで登った。しかし彼らの次の目標はヒマラヤの高峰へと変わっていったのだ。

 この時代(1930年代)のヒマラや登山は、初登頂が目標であり、この登山目標と形式は1960年代まで続いた。早稲田はいち早くヒマラヤ登山を目指し、その登山方法を研究した。その一つの方法である極地法が関根吉郎によって実践された。以後登山の目標はヒマラヤ一本に絞られアルプスでの登攀という目標は忘れ去られた。

 終戦後の学校山岳部としては、統制の取りやすい集団的、組織的登山は歓迎され、大人数で均一的な山岳部に変わっていった。こうなると山岳部による小人数の登攀はありえない。大学山岳部以外のより先鋭な登攀を目指す社会人山岳会を選ぶ学生が現れ、このころから大学山岳部の衰退が始まった。

 早稲田でも部員数が年を追って少なくなり、大きな登山計画は作れなくなったゆえ、ローツェシャールの松浦輝夫、K2の大谷映芳のようなヒーローは生まれなくなった。こんな時代の末期に、9年生になった竹中昇は二人だけでバツーラⅠ峰に南面から挑んでいる。その後にもOBとなって登山に目覚めた部員が何人もいたが、彼らは皆早稲田以外の山岳クラブの一員としてヒマラヤ登山に加わっていった。

 この次の時代(現在)になると、ヒマラヤが必ずしも登攀目標ではなくなってくる。その都度小人数でパーティーを組み、アンデスやアラスカ、ヒマラヤ、カラコラム、極地などの大岩壁や氷壁が目標に変わってゆく。もちろんこれらの対象を目指すためには経験の蓄積が不可欠となり、誰もが行き着ける行為ではない。

 さて、これからの早稲田の山岳部はどのような登山、どのような登山形式の登山を行うことができるのだろうか。100年前に船田三郎が行ったスキーで徳沢から一気に奥穂高往復を目指すのか。今井友之助や赤松速雄のように単独で前穂北尾根や小窓尾根を登り切るのか。彼らは皆大学生だったのだ。今の学生にそれができるのだろうか。目標もなく50年も前と変わらぬ登山形式を続けているとすれば、100年以上の伝統を誇る山岳部も終わってしまうだろう。鈴木雄大君に続くような頼もしい早稲田の登山家が生まれてくることを期待したいものだ。

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