ヌシクラ会50年
寄稿者:児玉 茂 寄稿日:2025/2/28(会報162号転載)
1974年6月に、山岳部同期の4人でカラコラムを目指して出発した。この年は長く閉ざされていたカラコラムの登山が解禁され、ネパール・ヒマラヤに続く登山の領域が拡大した。とはいえこの年のカラコラム登山はまだ大きな隊を派遣できる国はなくて、偵察を兼ねた隊が多かった。1974年段階での未登の山域の広がりは、バトゥーラの山塊、ヒスパー氷河の北側の山群、そしてシアチェン氷河を取り巻く流域は全く未踏の状態で残されていた。
カラコラムの登山は、1950年代にバルトロ氷河の8000メートル峰 K2、ブロードピーク、ガッシャーブルムⅠ峰とⅡ峰が登られ、ラカポシ、ハラモッシュ、カンジュートサールなど主要な山も登られた。1960年代にはマッシャーブルム、ディスティギルサール、トリボール、サルトロカンリ、そして1964年にモムヒルサールが登られたが、これ以後カラコラムの登山は出来なくなった。
この空白の10年の間に、ネパール登山の禁止があり、ヒンズークシュに登山地域が拡大したため、山の規模に対応して大登山隊から少人数グループによる登山へと移り、そしてより困難なルートからの登頂を目指すという傾向に変化してきた。私と山下はこれからの登山対象としてカラコラムを選び、そしてより困難な新ルートからの登頂を目指すという目標を掲げ、目標となりうる山を自らの目で確認しようと思って旅立った。1974年の「カラコラム踏査」の活動の詳細は「リュックサック」XIIに記してあるので、読んでいただくとして、ここには目的対象に到達するまでのいくつかの当惑話を書き記しておくことにする。
6月10日(月)児玉、山下、渡辺 羽田17:50発 パンナム 001便で出発。栗山と竹中の見送りを受ける。香港、バンコク、ニューデリーで降りる。
11日;5:30カラチ着。入国に問題はないが、別送荷物の受取りに手間と時間を要す。空港の裏の倉庫で手続きに並び、大汗をかき、不安を覚える。この時、山下が接触したMr.カリムが協力してくれて、やっと別送の荷物が手元に確保できたのは6時間半後だった。次の問題は、この荷をどうするかということと、本日の宿泊場所の確保と、明日の行動である。出来れば一等列車でラワルピンディーへ行きたいが、駅はどこにあるのか、それさえも皆目わからない。大荷物を抱え、暑くて乾いて砂埃だらけのカラチで途方に暮れるところであったが、幸いにもMr.カリムが全ての問題を解決してくれた。Mr.カリムは真っ黒い顔に鋭い目の人であったが親切で、家に私たちを連れてゆき休ませてくれた。ジャパン・クラブや駅にも連れていってくれて今後の相談にのってくれた。一等車の切符はないので本日中の出発を諦め、渡辺が荷と共にカラチ駅に残り、児玉と山下がカリム宅に泊った。夜は暑いのでベットを外に出し蚊よけのシーツを被って寝た。長い一日だった。
12日;朝の駅で切符を求めたが、一等はなかった。ここから次の苦行が始まることになった。
11時のカラチ発ラワルピンディー行きは満員で、はじめからデッキに大荷物とともに座り込む他なかった。停車の度に客が荷を乗り越え、おまけにトイレの前なので落ち着く事ができない。熱風と埃と匂いとで疲労感が募る。ラワルピンディーまでの所要時間は26時間だそうである。渡辺は昨夜の泊まり込みで既に現地順応を果たし、汽車の旅にも動じる様子が見えない。
13日;18:30ラワルピンディー着。31時間半の汽車による旅はついに終った。くたくたにくたびれた。ところが駅に着いたと思う間もなく、我々の荷を強引に運んでゆく者がある。荷をタクシーに運び、チップを要求するポーター達がわれ先にと客の荷を奪い合う凄まじい光景が始まった。目のギラギラした運ちゃんが行く先も聞かずに走り出す。出発以来一度も落ち着くことなどなかったから、せめてホテル位は落ち着いた静かな所をと思った。そして一刻も早くシャワーを浴び、冷房の中で過ごしたかった。運ちゃんには少し高くとも一流の所へ連れていってくれと伝えたつもりだったが、風体から判断されたのか全然理解して貰えなかった。最初の所は新大久保の100円宿のようで、いくらなんでもひどすぎる。次はクーラーがあるという一流ホテルとして案内されたのがアルカリル・ホテルだった。ラワルピンディーの喧騒を極めたバザールの中にあり、人通りも車もすこぶる多い。部屋へ向かう階段は半間もない狭さで、部屋は八畳ほどもない。クーラーなどあるわけもなく、3つのベッドが所狭しと並んでいる。窓はあるが小さくて風が全く通らない。トイレ兼水場の水は生ぬるいときている。ピンディーではこれを一流ホテルというのだろうか。外で風に当たって寝た方がまだましだという位だが、時間も遅くなるし今日はこれ以上大荷物を抱えて動きたくないという気が先に立って、この忌まわしいホテルに泊ることになってしまった。案の定、山下が熱を出した。下痢もしている。ここでは回復どころか病気が悪化するばかりだ。(二日後に回復した)
ラワルピンディーからスカルドへの飛行機便は天候に左右され、運が悪いと一週間や10日の順番待ちも珍しくない。私達の場合は運良く4日目に飛行機に搭乗できた。
18日;荷物をタクシーに積んで9:30に空港へ向かう。しかしここで一悶着があった。重量オーバーのため一人は別便に乗れという事になり渡辺が残る。だが出発間際になってキャンセルがあり、3人が揃って飛べることとなり一安心、F27機は無事飛び立った。山の方には雲がわき上がり、飛行が中止になりそうな雲行きである。これまでに山を越せずに引き返した話を何度も聞いていたから困った事になったと思った。しかしこれも幸いな事に問題なくスカルドまで飛んでゆけた。この日の問題はスカルドに着いてからであった。スカルドの町と空港とは9マイルの距離でジープが無ければどうにもならない。空港には滑走路と小屋があるだけで周辺には家一軒もなく、PIAの1台のジープだけが頼りである。初めに地元の人と荷を運んだので我々3人とフランスのトランゴタワー隊員5人とリエゾン・オフィサーが空港に残された。複数のジープが戻ってきてフランス隊を運んでいったのが15:00頃で、到着から2時間半後であった。次は我々の番のはずだが、待てど暮らせどジープは戻って来ない。何もない空港でまた一夜を過ごすのかと諦めかけた頃,律義にもジープは戻ってきた。18:30であった。(スカルドまでの所要時間は30分)どこに泊るというあてもない。ジープが停止したのは町を抜けた先にあるレストハウスで、フランス隊もここにいた。他に適当な宿泊施設はないらしい。スカルドの標高は2300mで、暑いピンディーとは全く違う環境だ。あてがわれた部屋は広いがベットがなかった。ゴロ寝でも5Rpなので仕方がないか。期待などしてはいなかったがここにも落ち着ける状況はなかった。とにかく今日は寝るだけだが、夜は寒くてシュラフを引っ張り出さねばならない。東京を出てから一週間、私たちはついにカラコラムの麓に着いた。
マッシャーブルム南面のフーシェ谷偵察を終えてスカルドに戻ると、なぜか地元警察に外国人登録が必要だと咎められ、20日間もの足止めを食った。貴重な時間の浪費ではあったが、各国登山隊員や、地元の人々との交流ができ、貴重な情報も得ることが出来た。スカルドに戻った5日後にはフライトがあり、後発の板垣がスカルドに到着した。山下は一足先に帰国の予定で、ギルギット便に乗るためにジープでギルギットに向い、ラワルピンディーで外国人登録の書類の処理をしてくれた。その後山下は方針を変え、K2を見たいが故に帰国を延ばし、ネパール帰りの登山者と混成チームを組んで改めてバルトロ氷河に向った。フーシェ谷で雇ったポーターのヘダールとはこの間にすっかり親しくなり、第二期のチョゴルンマ氷河行にも同行することになった。(ヘダールは1977年の私の氷河調査を目的としたカラコラム踏査行にも同行した)
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ヌシクラ会というのは、私達同期5人の集まりで、住所が北海道、名古屋、九州と東京に分かれているため10年に一度5人が集まり、このカラコラム行の思いで話を語り合う会である。それが今年で丁度50年になった。「ヌシク・ラ」というのは、中部カラコラムの山中にある有名な氷河のコルで、この踏査行の後半に渡辺、板垣と3人でたどり着いた。直下にはカラコラムを代表する長大な、あのヒスパー氷河が横たわり、目の前にはキンヤンキッシュ、プマリキッシュ、カンジュートサールが聳えていた。

ヌシク・ラからヒスパー氷河と対岸の山々
(カンジュートサール、プマリキッシュ、キンヤンキッシュ)



