世界の家を撮りまくる

寄稿者:小松 義夫 寄稿日:2025/2/28(会報162号転載)

小松義夫

1945年生まれ。東京綜合写真学校に学ぶ。1年間スタジオカメラマン勤務を経て、南米・東欧を皮切りに世界各国で人の暮らしを中心に取材を続けている。81年にはヒマラヤK2登山隊にカメラマンとして同行し、ドキュメンタリー番組「K2西壁苦闘の60日」制作に参加。カレンダー「世界のおもしろ住宅」(松下電工)の制作を約20年続けた。現在でも多くの時間を海外取材に費やす

K2登山を振り返る

 1981年のK2西壁登頂から今年で44年になりました。

 私は登山には詳しくはありませんが、現代のヒマラヤ登山ではパソコンは必須のもので、天気図、天気予報、雲の形や位置、グーグルアースでのルート確認なども行われていると想像します。小さなことでは懐中電灯も消費電力が少なく寒さに強いLEDが使われているでしょう。写真もデジタルが主流で、動画撮影もスマホ、ゴープロ、軽量ビデオカメラなどの時代です。それらパソコン、LED,デジタル記録カメラが無かったころの古い話ですが、しばしお付き合いください。登山に素人だった私がカメラマンとしてK2登山に関わり、その経験からどう変わって、以後どう生きてきたかをお話したいと思います。

 私がK2登山に参加したいきさつは隊がムービー・カメラマンを探していたことがきっかけでした。若い20歳の頃、写真学校を休みエジプトのカイロに行き、現地NHK支局のアルバイトでムービーカメラを回していました。それが1967年の第三次中東戦争の時期と重なり戦争が始まる前、戦争、そして戦争が終わった後の現地を濃密に撮影しました。この戦争はイスラエルの奇襲によるアラブ側の一方的な負け戦で、戦争自体は6日で終わりました。若き日のことでしたが、今となっては第三次中東戦争を体験した日本人は10人も残っていないと思われます。
 その後、エジプトからスイスに渡り少し暗室で働いたのち、中古の車(VW ビートル 1957年型)を購入して地中海一周を試みました。22歳の時でした。時計回りに走ればエジプトに着く。カイロには新聞社やテレビ局カイロ支局の知人なども多く、仕事もできるので何とかなるだろう、という心つもりでした。実際、カイロに着いたら新聞社が本社から送り込んだ写真部の記者、有名写真家の助手などの仕事をしていました。
 ひとしきりカイロで過ごしたのち、再び地中海一周を試みました。カイロを出発したのは23歳になったばかりの冬の1月でした。地中海のアレキサンドリアには砂漠道行くことにしましたが、あいにく冬の砂嵐が吹き始めました。砂を気にせず走り、アレキサンドリアからリビアに向かいました。当時のリビアはカダフィが政権を取る前でしたのでイドリスという王が治めていたリビア王国でした。エジプトの地中海海岸線に沿った砂漠道を行き、少し上り坂を上がるとリビア国境です。そこからリビア東部の町ベンガジを目指しました。そこはキレナイカ半島と言って古代ローマの穀倉地帯でした。そうこうしているうちに雨が降ってきて道はぬかるみます。ベンガジに着いて車の前面を見て驚きました。車の塗料が落ちて鉄板が剥き出しになっているのです。塗装が無くなった鉄板にキレナイカ半島での雨が当たり錆が浮いています。おまけに前照灯のガラスがスリガラスになっていました。つまり、砂嵐の砂漠道を走ってきたので車前面が地表を走る砂のためサンドペーパーで擦られたようになっていたのです。
 砂嵐の中を走ったからか、エンジンの調子も悪くなりました。ガレージで見てもらったら修理に2週間、料金が200ドル(当時としては大金)かかるといわれました。だましだまし運転し、チュニジアに入ってからシシリー島に渡りイタリア本土を走ってローマまで行きました。そこで車が動かなくなったので車を破棄し、汽車でモスクワ、シベリア経由、ナホトカ港から舟で横浜に帰ってきました。

 なぜ、このような昔話を長々と書いたかと言うと、地球を平面的に動いた、または地球の大きさを自分の肉体化したということを言いたかったからです。その後、スタジオ勤務を経てフリーになり車で社会主義時代の東ヨーロッパや中近東を取材しました。以後、雑誌の国内取材など様々な仕事をしてきました。

 そんな時、早稲田のK2隊がムービー・カメラマンを探しているのでどうだろうか、と知人を介して言われました。しかしK2と言ったら山に詳しくなくてもその名前は知っていました。自分には山の経験もなくて参加する資格はないと思いました。でも、もしK2登山に同行すると仮定し、ヒマラヤ登山の本を読んで、ヒマラヤ登山とはどういうものかを調べました。結論は、私には無理というものでした。登山経験がない、そして酸素が少ない高所は恐ろしいところだ、というものでした。そんなわけで、K2同行は遠慮するとお伝えしました。
 ところがK2隊は出発が近いのにもかかわらず同行するカメラマンが見つからないという状況だったようでした。稲門山岳会の重鎮の方や隊長の松浦さん本人から「早稲田の登り方はフィックスロープを張って上る安全なほうだ」また「ベースキャンプまででよいから来てもらえないか、記録を残したいだけなのだ」と言われました。また「ヒマラヤ登山に参加すると普段は人生で会えないような人と出会えて、以後人生がひろがります」と松浦さんから言われました。そんな背景もあって、いつの間にか催眠術にかけられたようになって、登山に参加することになってしまいました。

 さて、5350mのベースキャンプの目の前にK2の西壁がどっしりと見えます。正直、ここをどうやって登るのだ、と思いました。身体が重く、のろまの私は何度かの挑戦でC1に行き、そして6600mのC2に上りました。荷揚げするポーターやルート工作から帰ってくる隊員などを撮影しているうち、いつの間にか登山活動に巻き込まれたようになってC2のキャンプ番になった気分でした。その後、嵐に閉じ込められて動けなくなりましたが嵐は収まり、天気も回復の兆しが見えてきました。頂上アタックの日が近づいてきたころ、キャンプ5に居た米本さんから「隊長がBC で一人なので、降りて話し相手になってくれないか」と連絡が来ました。
 キャンプ2から5350mのベースキャンプに下り、20数日ぶりに大テントの松浦さんに会いました。コックが「松浦さんは何も食べていない」というので松浦さんの体調が心配になって便の色を聞いたら、黒いという。私は心配のあまり胃か腸のどこかで出血していると想像した。というのは、松浦さんが以前に胃を手術したときの腹の手術跡を見せてくれ、もしリエゾンオフィサーが登山中止と言ったら、彼の前で「俺は昔、切腹したことがあるのだ」と腹を見せつけて開き直るつもりだ、と冗談を言っていた。腹を縦に切る切腹もアリなのかとその時は思って笑ったが。とにかく食事をとらないのは良くないので少しでも食べてもらうようにと毎晩お相伴し話を聞きました。
 ベースキャンプに下りてきた次の日、上部キャンプから降りてきたハイ・ポーターの一人がベースキャンプ近くのヒドゥンクレバスに落ちました。幸い同行のポーターが近くに居たので、彼がクレバスの底から落ちたポーターを引っ張り上げました。落ちたポーターは錯乱状態で泣き叫んでいたが、同行のポーターが彼を二、三発殴って落ち着かせてから私のところに連れてきました。なにしろベースキャンプには隊長と私しかいなかった。隊に同行していた斉木ドクターは高所障害で身体が動かなくなった衣川さんを連れて下山していました。
 頭から血を流しているポーターを見て私はひるんだが、彼の面倒を見るのは私しかいない。幸い、斉木ドクターが緊急時のための医療ボックスと手書きの扱い説明書を残しておいてくれた。頭から出血しているポーターを診たら額から後頭部までサングラスのガラスで切ったと思われる長く浅い傷だった。それならなんとかなる、とドクターの説明書通りにキシロカインという表面麻酔薬を塗って彼の髪の毛を切って傷口周りをきれいにした。10数センチの切り傷を説明書にある通りに針と糸で縫った。ポーターは麻酔が効いているのでおとなしくしている。縫い終わったらクロマイ軟膏を塗ってガーゼで覆い、頭に包帯を回し巻いた。その後、ポーターを安心させるためもありカプセルに入ったケフレックスという抗生物質のアンプルから注射針で薬液を注射器に入れてお尻に打った。針をどのあたりまで入れるのが正しいか迷ったが、緊急時なのでほどほどのところで薬液を注入した。幸いポーターは順調に回復に向かい、一週間もすると傷口はふさがった。

8月3日、長い間待っていた晴天が訪れた。全員が上部キャンプ、アタックに向け動き始めた。K2頂上が晴れるのは統計上ほんの数日だ。晴れているうちに、そして悪天候に襲われないうちにアタックを成し遂げなければならない。隊長の心配は極限に達していた。アタック前に、隊員を高所にとどめ置いている重圧に「風が吹けば全員が遭難するかもしれない」と隊長は一人つぶやいている。そろそろアタック開始だが気が気ではない松浦さんはベースキャンプ近くで氷が溶けてプールになったところで水垢離を切り始めた。ほとんどの隊員を8000メートル付近に張り付けていて、何もせずにベースキャンプに座っていることが出来なかったのだろう。リエゾンオフィサーがあきれた顔で松浦さんの水垢離を見ていた。
 8月4日、大谷さん、山下さん、ナジールのアタック隊をはじめ隊員たちがジリジリ上にあがってゆく。アタックキャンプのキャンプ6を設営予定だったが全員が高所での酸素不足で身体が思うように動かず、結局キャンプ5からアタックを行うことになった。ベースキャンプで西壁を見上げ交信している松浦さんの姿が印象的だった。夜は松浦さんが8000m付近に隊員を集めてしまっていること、次の日5日のアタックの時、天気は持つだろうかと心配のあまり「事故が起きたら」と事後処理のことをつぶやき始めた。
 6日朝、晴れた。大谷、山下、ナジールのアタック隊が出発。酸素ボンベは持って行かなかった。ベースキャンプでは松浦さんが腕時計を見ながら、思いを頂上付近にめぐらせて交信を繰り返す。サポート隊にも檄を飛ばしている。しかし、頂上に届かない。結局、8500mあたりでビバークになったようだった。酸素ボンベ無しの超高所でのビバークは、あまり例を見ない。
 夜、松浦さんは心配の気持ちを紛らわすため頭に浮かぶことを話し始めた。16年前の早稲田山岳部1965年の8000m峰、ローツェシャールの事故のことを思い出し、昔の映画を巻き戻して見るように、当時起きたことを本当に細部にわたって語り始めた。私は、人間はそこまで細かいことを覚えているのだろうか、と記憶力に舌を巻いた。というより、早稲田山岳部の高所事故で頂上まで行けなかった悔しさを長い間、心に秘めていたのだなと思った。その夜、松浦さんの話を聞いていた私は心理カウンセラーの役をしたのだろうか。
 私は外に出て、カメラを取り出して三脚に据え、真っ暗なK2西壁に向かってシャッターを4,5分ほど開きっぱなしにした。暗い山肌のC4やC5のテントの灯りをフイルムに拾えるかもしれないという思いからだった。酸素の少ない高所で頑張る隊員たちのうめき声が聞こえるようだった。
 7日の早朝アタック隊から連絡。頂上に向かうがなかなか先に進まない様子だった。超高所での無酸素でのビバークで体力を消耗したのか、彼らの様子は交信でしかわからないがトランシーバーでの大谷さんの声は元気だ。隊長はアタック隊の動きが遅いので撤退命令を出した。長いやり取りの後、頂上近くに疲労していたと思われる山下さんを一人置いてゆくことで、大谷さんとナジールが頂上を目指すことになった。11時半ごろ二人は頂上に立った。ベースキャンプとひとしきり感動の交信をしてから下山に取り掛かる。8300mで酸素を持ってアタック隊を待つサポートの米本、薮田さん等とアタック隊が合流したのは18時ごろだった。
 隊の全員が無事ベースキャンプに着いたのは次の日の夕方だった。日が落ちて暗くなりつつあるBCに居るコックが隊員たちにチャイを配っていた。高所で酸素ボンベを抱えてアタック隊を待っていた米本さんは指に軽い凍傷を負っていた。彼の眼を見たら黒目が薄くなっていた。アタック隊員のみならずサポート隊員は下りてきたアタック隊員に酸素を吸わせるため、とんでもない苦労をしていたのだ。今でもアタック時の緊張の数日間とボロボロ疲れた隊員たちの姿は忘れられない。

 登山終了後にスカルドに向かって下りる日々は本当に幸せだった。なにしろ、下界に下りる毎日で少しずつ酸素が濃くなって呼吸が楽になる。登山は成功、事故も無かった、生きている幸せってこういうことなのか、と思ったものだ。下山4目だったろうか、ウルドゥカスというキャンプ地に来ると、草が生えている。隊長の松浦さんは草に上に転がって地面を味わっていた。私も草に触れたら、指の先から生きている喜びが電流のように伝わってきた。過酷な登山活動を共有した経験から人は生きているだけで、それだけで価値がある、と本当に思った。私自身は登山隊員ではなかったが60日に及ぶK2西壁に挑んだ登山隊にカメラマンという観察者の立場を超えた体験はその後の生き方に大いに影響したと思う。陳腐な言い方だが、平面的な地球に対する理解に高所での縦の体験が加わり物の見方が立体的になった。K2登山に関して隊員、一人ひとりそれぞれのK2の思い出があるともいますが、以上が私の思い出です。

 K2登山の翌年に、ちょうどK2の裏側にある中国国境に近いシムシャール村を訪れた。当時、シムシャールはパキスタン政府によって入域禁止措置が取られていたのです。K2で体験した濃密な日々と東京での安穏な日々のギャップに耐えられず、再びカラコルムに行きたい、と身体が求めていました。
 1955年に京都大学カラコルム・ヒンズークシ学術探検隊長だった今西錦司氏はシムシャールへの入域許可を申請していたが許可は下りなかった。シムシャール村は戦中にイギリス人のカシュガル総領事で登山家だったシプトンが馬で中国側から入った記録があるが、戦後は誰も入っていなかった。未知の地域に入る興奮も加わって、私はK2で使ったシュラフ、靴、登山着を持ち現地を目指した。フンザのグルメット村でK2の時のハイ・ポーターに同行を頼んでシムシャール村へ向かった。途中、小屋で一泊しムラングッティ氷河の舌端を越えてからシムシャール村に入った。下界から隔絶した村は河岸段に畑はあるものの羊やヤクが食べる草は十分ではない。彼らはパミール高原に広大な牧草地を持ち、春の終わりから秋の前まで家畜を放牧地に連れて行き太らせていた。そこで育ったシムシャールの羊は肉質が良く下界で高く売れるという。シムシャールの村人は厳しい生活を生き抜いてきた逞しい姿や顔つきをしていて、彼らの姿を見るためだけにシムシャールに来た甲斐があった、と思うのであった。
 伝え聞くことによると世界から隔絶されていた村にも2004年に細いながらも道路が完成したという。今では、村人は子どもたちを外の学校へ送り、教育を施している。村の姿は変わりつつあるだろう。いつかシムシャール村を再訪したいと思っている。

 以後、K2 で一緒だった大谷映芳さんが勤務先のテレビ局の番組制作のためブータンに行くというので横から自費で参加させてもらった。当時、陸路しか行けなかったブータンにカルカッタから航空便が運航を始めたが、その第二便でブータンに入国することができた。
 以後、アラビア半島の南西端の北イエメンに何度か足を運び中世部族社会のままの国の隅々まで歩いた。北イエメンは1990年に社会主義だった旧南イエメンと合併したので、ランドクルーザーをチャーターし、今まで謎に包まれていた旧南イエメンを走った。未知だった国を見て回ったのは少々興奮することだった。

 そんなことをしながら、アフリカ、太平洋諸国、南米など世界各地に足を運んだ。訪れた国はたぶん150ケ国以上。著書に「地球生活記」「地球人記」(福音館書店)ともに334ページ、重さ各1.4kg。アメリカでも「Built By Hand」「Humankind」(Gibbs Smith Publisher, USA)重さ2.5kgなど、その他多数の本を出している。世界の民家をテーマにしたカレンダー(松下電工、現パナソニック)のカレンダー制作は37年間続いたが2024年をもって終了した。

頂上写真はナジール氏のカメラによるセルフタイマー撮影
K2西壁
8月 8 日に隊員全員がBCに到着したとき

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