山本 聖二 さん
1963年(S38年)卒 2024年(令和6年) 12月10日(火) 逝去
タフガイのヤンチョーを偲ぶ
寄稿者:渡辺 大三 寄稿日:2025/2/28(会報162号転載)
日本山岳会のマナスル登頂という戦後初の偉業が、空前の登山ブームをもたらしていた。昭和34年4月、山本聖二、窪寺健之、向坂守行ら多くの学友がそれにあやかり、当時の23号館裏にあった汚い長屋の早大山岳部の門を叩いた。入部早々からランニングなどの厳しい体力トレーニングが始まり、大方の仲間が音を上げて脱落。そして上高地奥の岳川谷で行われた初めての新人合宿には計24人が参加し、二班に分かれて実施された。ピッケルを使ったグリセード訓練の厳しさは半端ではない。自分も山本らと競り合わされ、まるで地獄のようだった。
新人の数は12人に減り、8月に入り北アルプス縦走という夏山合宿がいよいよ始まった。富山電鉄の千寿ケ原(現在は立山)駅前から大ザックに目いっぱいの荷物を詰め込まれ、炎天下の川沿いの道を進んで称名の滝下に到達。翌日はその滝の流れる音を聞きながら曲がりくねった太郎坂を登り、弥陀ヶ原をたどってようやく「みくりが池」わきのテント場にたどり着く。合宿2日目の夕食後、新人は一人ずつリーダーテントに呼ばれ「お前はあす下(富山)に下りるか?上(槍ヶ岳)に行くか?」と濱野吉生さんに迫られる。思わず「上に」と答えてしまった山本や自分たち。まさにこの日をもってその後の運命を決めたと言っても過言ではないだろう(笑)。槍ヶ岳・肩の小屋に至る最後の坂道で、「駆合い」と称し上級生が後ろから新人を追い上げる早稲田特有の競争があり、自分も山本らと競わされた。夏山を終えて残った34年組は9人、卒業後も長い付き合いが続いた。
山本は3年先輩の山本晃さんが卒業を機に「ヤンチョー」というニックネームを譲り受けた。山登りに関するリーダーシップ(チーフリーダー)はもちろんのこと、都会でのラグビー、ランニング、ボート漕ぎなどあらゆる体力強化の指導でも実力をいかんなく発揮した。料理上手を真っ先に発揮したのは、昭和35年春の赤谷尾根から剱岳登頂という大合宿が成功しBCに集結したときのこと。麓の伊折部落で仕入れてきた「コケコッコー」と鳴き続ける鶏を誰が捌くのか?興味津々だったが、なんと新人の山本が名乗り出て鮮やかに処理したではないか。この日のカレーライスは、生まれて初めて味わう最上の一品だった。そして合宿終了を祝い、参加者全員(31人)が声高らかに歌った校歌「都の西北」は、一生忘れられないものとなった。

昭和35年(1960年) 最前列左の2人目が山本さん
2年時の夏、NETテレビ(現テレ朝)が前年の谷川岳に続き2回目の夏山中継を行った。山本や自分らはその中継機材を上高地から涸沢ヒュッテ、ひいては穂高小屋まで運ぶボッカのアルバイトに参加した。ボッカリーダーは成川隆顕さん、NET社員の小倉茂暉先輩に頼まれたと聞く。我々下級生はこれに絶対的服従であった(笑)。開局間もない当時の撮影機材はすべてアナログ、そしてバカでかくて重い。パラボラアンテナや発電機などを文句も言えず荷上げした。この夏山中継は大好評だったようだが、我々に知る由もない。きついバイトが終わったらナーゲル(鋲靴)がボロボロになり、ゴム底のビブラム靴を新調した分、労賃は消えていた。
山本とは4年時にもう一度アルバイトがあった、田村修一先輩が日映新社にカメラマンで入社し、夏山スケッチとして槍ヶ岳殺生小屋のボッカ衆を追いかけるというもの。その撮影助手として2人が指名された。長くて重い望遠レンズや三脚を担いでボッカ衆の後を追う。かと思えば「前に行け」とドスの利いた田村さんの声に従い素早く追い抜いて三脚を揃える。田村さんが腹ばいになって撮るときもあった。また蝶が岳に登り、穂高連峰と槍ヶ岳の大パノラマを狙う。二人にとってはたっぷりしごかれたバイトだったが。田村さんはこの作品で栄えある新人賞を獲得したという。映画館の大スクリーンには上高地から槍ヶ岳に向かうボッカ衆の力強い歩きぶりや、迫力ある映像がたっぷり映っていたに違いない。
山本は遭難や部員不足など、大学スポーツ界にとって難しい問題が山積していた時代に、監督〈2回〉コーチとして現役学生の指導に当たり、部の再建に努力した。また稲門山岳会幹事長として年長者はもとより若手OBらの再結集を図り、海外遠征などの計画推進に力を入れた。
そして最大の念願だった早大山岳部創部百周年記念事業を、コロナ禍に邪魔されながらも無事に乗り切り、成功させた功績は誠に大である。
酒は強く、料理は上手く、タフで何でも出来たナイスガイのヤンチョー。どうぞゆっくりとお休みください。合掌
ダウラヒマール遠征(1970年)隊長 山本聖二様
寄稿者:米本 隆夫 寄稿日:2025/2/28(会報162号転載)
昭和41年5月、早稲田は、学園紛争の余韻がまだ漂っていた。私は入学したものの正常な授業は始まっていなかった。大隈銅像のすぐ脇に、山岳部の出店が出ていた。入学するまで正直、入部の気持ちは持ち合わせていなかった。虫が知らせたのだろう、学生服を着た、如何にも先輩風の部員らしき人物が、いらっしゃい、いらっしゃいと応じてくれた。これが、私と山本先輩との出会いであった。以来、先輩が亡くなる令和6年12月まで、かれこれ58年の歳月が流れた。
思えば、あの日以来、実に濃密な山岳部での生活が続いた。入部の年は、山本先輩はすでに理工学部8年生であったと思う。私の入部の前年、山岳部は、稲門山岳会と共にネパールの8000m峰ローツェ・シャール(8383m)に遠征隊を送り、登頂はできなかったが、当時の大学山岳部単独の遠征隊では、もっとも高い高度への到達を果たしていた。この顛末はリュックサックⅪ号に詳細が記録されている。その隊の隊員として山本先輩と白鳥先輩が、学生を代表して参加した。白鳥さんは現役主将だった。戦後、日本の登山での海外遠征は、大学のみならず社会人山岳会も何度も実行されているが、この遠征ほど内容の濃い登山を私は知らない、というよりも早稲田がもっとも早稲田らしい山登りを実行できた金字塔だと理解している。登攀中に発生した成川隊員の救出劇は、登山の成否は登頂がすべてではなく、参加した隊員が全員生きて、無事に帰ることが優先されるということを伝えてくれた。これは、学生の教育登山に限ることではない。山本、白鳥両現役学生は、身をもってそれを見て来た。そして、現役学生の活動に復帰した。
今では、信じられないが、当時、山岳部には5年生以上の現役部員が、ゴロゴロいた。山本先輩は、そんな中の一番上級生だった。年に数回の合宿にも、先輩たちは、入れ替わり立ち代わり、4年以下の部員とともに、合宿に参加した。並みいる古参現役のなかでは、山本先輩は、私の記憶では、山での合宿よりも、都会でのラグビー合宿での姿が鮮明だ。いつ頃からなのか、我が山岳部ではラグビーをトレーニングの一環として、年間のトレーニングカリキュラムに組み込まれていた。山本先輩が亡くなる直前に先立たれた小林先輩とスクラムの一列を組んで熊越先輩をフッカーにして、私たち4年以下の現役とスクラムで当たった。年に2回ほどのOBとの試合だったが、私の記憶では、4年になってもOBチームに勝った覚えがない。OBにはラグビーの好きな連中が多くいて、私たちの非力では容易に勝てなかった。その後の記憶では、レフリーは吉川先輩がいつもなさってくれていたが、私が卒業するころには、山本先輩がOB戦で、レフェリーをやってくれたことを記憶している。
1965年、部はローツエ・シャール遠征隊を送り出していた最中に、現役が穂高の北尾根で滑落事故を起こし、2人の2年生部員を亡くしていた。小林先輩が主将でその隊のリーダーだった。事故処理を終え、帰京後、現役、OB一丸になって、事故の検討を行い、体育協議会に報告書を提出し、7月には部活動の再開許可を得た。部の再生に取り組み、地道な合宿を重ね、浜野監督の英断も得て、1967年の、山岳部初めての現役学生の海外合宿イラン遠征を実施、イランのディマバント峰登頂に成功、翌年は、穂高の天狗尾根から、北穂高へ、その翌年は赤谷尾根から剣岳本峰と、着々と次なる海外合宿への歩みを進めた。そして1969年、村田省一が主将になり、5月には吉川監督から、代わって山本聖二さんが監督になられた。そして、夏、南アルプスを縦走合宿、その秋、ネパールへ大滝OBを隊長にして、山田、米本の3名をネパールへ偵察隊として派遣した。その結果を受けて、正式に1970年のダウラ・ヒマール遠征計画が決定された。そして、隊長には山本監督自らお引き受けいただいた。
本計画は、1965年の穂高北尾根での事故以来、部の再建の道のりを飾るべき記念すべき海外合宿のはずであったが、さまざまな要因から、6920mの登頂には成功したが、前途有望な2年部員を失うこととなり再び山岳部は休部、いばらの道を歩むこととなった。事故の顛末を振り返ると、1970年の4月30日、12時間近い行動の結果、米本、大谷、菊池の3人のアタック隊は、ツクチェピーク登頂の後、午後8時近く、極度に疲労した菊池隊員の滑落とともに、ザイルを結んでいたが停止出来ず、3人とも滑落した。一番先に気が付いた米本が無線で、山本隊長に事故の発生を報告、午後10時30分、深夜隊長自らドクター、他隊員2名を引き連れてC1へ救援に向かったが、翌日早朝、菊池隊員が再滑落した。救援隊は生き残った二人を収容、体制を立て直してのち、山本隊長自ら、4名の隊員を引き連れて、菊池の遺体の確保、死亡の確認を行った。そして、隊長以下8名が協力して遺体を、ツクチェの村へ下ろした。東京の家族の指示をまち、ツクチェ村で荼毘に。そして、遺骨をいただいての帰国、ご家族へのお詫び、ご報告、隊長として、どれだけお心を痛めたことだろう。前途ある学生を死なせた責任を思えば、その心痛は計り知れない。直接の原因は現場のリーダーにあるとはいえ、アタック隊の構成、隊員の任命、サポート隊の構成、すべてにおいて隊長としての責任は消えるものではない。しかし、山本隊長は、すべての責任をお引き受けになり、現場のリーダーに押し付けることはなかった。救出活動においても、むしろ、現場のリーダーがその責任の重さに耐えかねて、短絡的な行動に走らない様に、同期の隊員に、身辺の行動に注意するように指示を出したと、あとで聞いた。そのことを聞いて、わたしは改めて山本隊長のお心に、感謝とお詫びを、心の中で申し上げた。そして、亡くなった菊池裕介君の御霊にお詫びとともに、もし彼がその後、無事に遠征を終え、主将として部活動を行っていたならば、ということを前提にして、この後の人生、身代わり役を果たそうと心に誓った。それは、山本隊長が私に臨む、現場の責任者としての生き方であると考えたからである。帰国後、ほどなく監督は、山本聖二さんから浜野吉生さんに交代して、部は休部となり、一切の登山は禁止された。その間、遭難の原因を追究し、幾度となくOBも参加し、今後の部活動について協議した。そうして、大学側へ北村正次前山岳部長を通じて「山岳部再建に関する体育競技委員会への答申書」を提出した。その結果、大学側からは、3月8日、休部解除、部の登山活動について再開の許しを得、再建の道を歩き始めた。私はその後村田主将のあとを継いだ大谷主将が部の登山活動を再開するにあたって、5年生の間、穂高での春山を無事に終えるまで、合宿に参加して卒業し、郷里岸和田に帰った。そして、その11年後、K2遠征計画が持ちあがった。ツクチェの事故の現場での責任者として、亡き菊池君へのお詫びとして、彼の身代わりとして、もし彼が存命ならば主要なメンバーとして参加していたはずだと、ツクチェで生き残った大谷君や籔田君の主導するK2遠征に協力するべく、一人の隊員として参加した。
ツクチェの事故以来54年の歳月が流れた。2025年12月10日、時の隊長山本聖二先輩が亡くなられた。20日のご葬儀では、奥様のご配慮で、ツクチェの隊員であった私と三宅がツクチェの隊員を代表して先輩のお骨を、藤原、中山先輩たちとともに拾わせていただいた。骨壺に納めるお骨に向かって、最後のご挨拶をさせていただいた。
「長い間、本当にありがとうございました」合掌。


