小林 紘司 さん
1966年(S41年)卒 2024年(令和6年) 11月2日(土) 逝去
小林紘司君を偲んで
寄稿者:藤原 信吉 寄稿日:2025/2/28(会報162号転載)
2024年11月、小林紘司君が数年の病気療養の後に亡くなられた。前年の4月には、OBの「よりあい」に家族に付き添われて出席していたのだが。
小林君と私たちが入部して間もない1962年の5月に、ペルー・アンデス登山隊が横浜港から出発した。「アンデスからヒマラヤへ」との熱気の中での山岳部生活のスタートだった。新人合宿は、岳川谷で9名の新人を含む29名で実施された。岳川谷での雪上訓練などが終わった下山前夜に、キャンプファイアーを囲んで皆で山の歌などを歌った。新人も一曲披露することを求められ、小林君は「男なら」を歌いこれが彼のその後の持ち歌となる。夏山合宿は、「鹿島槍から槍ヶ岳」と「剱岳から槍ヶ岳」の2パーティに分かれ、小林君と私は鹿島槍パーティだった。小林君は強かったが、それだけにより多くの荷を負わされることもあったように思う。彼がザックにテントなどの荷を詰め込むのに苦労しているのを見ながらそう思った。
春山合宿は前穂高岳北尾根から北穂高岳であった。北尾根8峰の頭、三・四のコル、奥穂頂上にキャンプを設置し北穂岳登頂等を目的とする極地法の登山だった。各部員の力に応じた訓練とチャレンジを行える合宿で、われわれ1年部員の役割はもっぱらボッカ隊であったが、小林君は前穂に登頂した。
2年部員になって5月の上級部員強化合宿、新人合宿を終え、夏山合宿に向かおうという時に、7名の2年部員のうち5名が退部し、小林君と私の2名だけになってしまった。小林君は彼らと話し合い引き留めていたようだが、残念な結果になった。この頃の山岳部の合宿日数は体育実技を含めると約100日に上り、準備や検討会、部員総会等の諸行事を含めると大学生活の相当部分が山岳部関係の活動にとられる。こうした事情が要因かもしれないと私は感じた。一方で、同期生2名となったことで、上下の年代との関係は、より緊密になったように思う。
我々の年代以降、新入部員数は、それまでの3分の1程度に減少したため、夏山合宿等でも新入部員については、選別ではなく育成するとの考えが強くなっていたと思う。しかしこのことは一方で登山対象と部員の力量の評価により厳しさを求められることになる。1965年度に小林君は主将になったが、その5月、前穂北尾根残雪期合宿の北尾根4峰で2年部員の弓削君と徳島君を失う遭難が起こった。小林君は重いものを背負うことになったが、わたしも同期生として様々な後悔の念がある。
その後、小林君は、山岳部の再建を期して実施された全部員によるイラン・エルブルーズ登山に参加したのをはじめ、終生、山岳部の支援に献身した。2007年には稲門山岳会の幹事長に就任し、存続が危ぶまれるほど部員がすくなくなっていた山岳部の再建に取り組んだ。また、2010年には創部90周年記念事業として、講演会、記念パーティなどを開催した。山岳部OBをはじめ大学関係者や他大学山岳部など多くの来賓の出席をえて実施されたこれらの事業は、100周年事業がコロナ禍で制約を受けただけに意義ある成果だったと思う。
小林君は、酒豪であり、また食を楽しみ巧みに料理をする一面もあった。OBのワインパーティには、彼の勤務地の琵琶湖名物「鮒ずし」をたくさん持参してくれた。陶器にも詳しく著名な陶芸家との親交もあったと聞く。入部時初めて会った時から小林君の存在感は際立っていたが、その後の交流のなかで知る大きな包容力も彼の魅力であった。
小林紘司君 ありがとう
小林紘司先輩に捧ぐ
寄稿者:米本 隆夫 寄稿日:2025/2/28(会報162号転載)
謹んで先輩のご冥福をお祈りします。思い出すのは、新人の夏山での出来事だ。その3ヶ月ほど前に私は早稲田に入学した。入学した頃、学内は学生運動の真っただ中、騒然とした日々が続いていた。そんなある日、大隈公の銅像脇に、山岳部の出店が出ていた。部活の意識は全くもっていなかったが、気軽な気持ちで、声をかけた。学生服を着た、おじさん風の人が、私の姿をながめながら、部室へ案内された。一度走ってみたらよい、とトレーニング服を貸与されて連れ出された。この先輩、山岳部8年生の理工学部生山本聖二先輩だった。小林さんは山岳部5年目の春であった。
ちょうど先に入部した新人7,8人と共に2年生部員の伴走で、大学の文学部の入り口から、4キロほどの短いコースを走った。途中、「Open!」の掛け声とともに、競走した。ランニングのあとは、サーキットトレーニングをやった。短い距離だったが運動らしいことを何もせずに過ごした高校3年間のつけだろう、ぜいぜい言いながらもつれ足で駆けた。
そうした日々を1ケ月ほど送ると、新人合宿ということで、入部以来、初めての山行があった。その年は富士山であった。6月だ。残雪を利用して、基礎的な訓練をおこなった。一番記憶に残っているのは、下山の最後、道が平らになるころになって、Open!の掛け声とともに、それぞれの1年生に上級生がついて、かけっこ、蹴合が始まった。背中には荷の入ったリュックサックがあり、確か、浅間神社の入り口あたりまで、抜き打ちで、走りを蹴合わせるのである。その昔は、谷川岳での帰りに同じような訓練をやっていたとは後で聞いた。この合宿を機に、何人かの新人は部を去った。訓練とはいえ、そのありように頭がついていかなかったのだ。今思えば、新人の頭数を減らすための、悪しき慣習ではなかったか。小林先輩もこの合宿に参加され、私は、はじめての一緒の山行になった。
そうした日々を過ごすうちに夏が来て、夏山合宿が行われた。場所は、南アルプスを南から北へ、完全縦走する計画だった。静岡までいって、聖岳から、山梨の北岳までを10日をかけて、完踏するのだ。畑薙ダムのほとりで荷分けをして、ザックに詰めると、50キロ近くの荷物になった。歩き始めたが、足を前に出すのが大変な感じがした。これは大変だ、何時間も歩けない、という気がした。初日は、1時間ほどしか、歩かずに幕営地についた。この先、どうなるのだろう、と私達1年生は戦々恐々の体であった。
4日目、聖岳から中盛丸山、何とか頂を踏んで長い下りにさしかかった。自分では、バテた気がしなかったが、足が動かない。遥かに今日のテント場百間洞付近を見下ろせるのだが、足に力が入らないので、仕方なく四つん這いで前に進もうとしていた。2年生の佐藤先輩の背後に小林さんがついていた。54年前のこと、記憶が曖昧になっていて、はっきりとは前後の動きをおぼえていないのだが、「荷をおろせ」と小林先輩の声、ザックを降ろしたら、すぐに「山は二本足で歩くのだ」と低い声が聞こえた瞬間、猛烈な勢いで私の尻がピッケルで叩かれた。足がコテンコテンになっていることからか、音だけがピシッと聞こえたが痛みを感じなかった。私のリュックサックから共同装備の一切を取り出させた。すべてを私に付いていた2年生の佐藤先輩が自分のザックに入れた。佐藤先輩の荷の重さは如何ほどであったか。私は空荷になって、再び二本足でトボトボと歩き出した。ザックは軽くなって楽にはなったが、何か惨めでならなかった。二人の先輩の前での、この姿は、自分の力の限界をまざまざと焼き付けられた。
8日目、朝から、2ピッチ目だったか、塩見岳の登りだったろうか、再び号令がかかった。その日は、私をぶん殴った小林先輩が再び私の背後にいた。朝、早かったのか、荷が軽かったのか、足が動き、一番で塩見岳の頂を踏んだ。小林先輩が近づいてきて、独特のドスの効いた小声で、「よくやった」と。先日とは打って変わって、誉め言葉を伝えてくれた。私はこの一言で、先日の敗北の辛さが消えていくのを理解できた。
このような壮絶な新人の夏山合宿で、最後は北岳の頂に立ち、縦走合宿は終わった。3人の新人が途中、山を下りた。その都度、小林先輩が下の村まで付いて下りた。そして、翌日再び縦走する私たちに合流した。縦走を終え、いったん電車で上高地へ移動、上高地から涸沢経由、北穂の池のほとりにテントを張り、滝谷の岩を、ザイルを付けて登った。北穂の池の畔でのキャンプは、打って変わって天国の感がした。岩歩きの基礎を学んで、涸沢から徳澤に下山したときはようやく、山岳部員としての資格を得られたような気がした。
秋からの合宿には小林先輩の記憶が定かでない。記録を見ると冬の栂池合宿までは合宿には参加していない。思い出として残っているのは翌春の、部始まって以来初めての海外合宿、イラン、ディマバンド海外遠征だけである。なぜか。下級生の私には先輩の心の中まではわからない。が、今日、先輩の現役での活動を読み取ると見えて来るものがあった。私が入部する2年前、先輩は昭和39年秋の部員総会で、代表委員主将に任命された。ちなみに同時に同期の藤原信吉さんが代表委員主務に任命された。二人のこの関係は、部活を離れて以後も、小林さんの亡くなる日まで終生、兄弟のように、続いた。藤原さんの熱い友情は、同じ山岳部に学んだ後輩として、学ぶべき模範であった。小林さんは翌春の春山は、チーフリーダーとして剱岳に向かい、部員の減少の中で、「所期の目的を達した」と藤原さんが書いた記録が残っている。(リュックサックⅪ号昭和39年度年報参照)。4月から昭和40年度に入り、小林リーダー以下5名の上級生だけで前穂高北尾根の残雪期合宿に出たが、四峰登攀中、2年生の弓削さんがスリップ、徳島君を巻き込んで涸沢へ転落、2人が死亡した。(詳細はリュックサックⅪ号「北尾根四峰の遭難」)。当時、この事故が、自分が主将として直接指揮を執っている中で起こしてしまった。極めて個人的なミスにもとづく滑落事故であったにもかかわらず、「最後尾にいたリーダー小林も、ザイルを使用したほうがよいと思いながらも指示しなかった。わずかな決断の躊躇が大事をもたらした」(北尾根四峰の遭難・検討 小林紘司)というリーダーとしての判断にたいする、深い悔恨の意識が、以後の小林先輩の行動のすべてにおいて、内包されているように思える。
「男なら男なら、生まれた時は裸じゃないか、死んでいく身も裸じゃないか、生きているうち一仕事男ならやってみな」。中山主将当時は、集まってはよく飲み歌った。小林さんはこの歌を独特の節回しにのせて、歌ってくれた。事故を起こして若い後輩を亡くした自己を責めながらも、今一度男になりたい、おれも男だ、という思いが伝わってきた。そんな記憶が今も消えない。
社会人になって長きにわたり、家業の会社社長の重責を担うようになっても、そうした過去の思いは消えることはなかったことと思う。人の死は、いかなる手段をもってしても、もとには戻せない。彼らが生きていたならば為したであろうことを自らおこなうことで、可能な限りのつみほろぼしをと考えていた、と思う。現実には、死んだ弓削、徳島さんは、自分のあとを継ぐ主将中山に一番近い後輩であり、まじかに先輩を支え、1年生を指導する上級生である。小林先輩自身は中山さんの一級上なのだがそれを横において、死んだ二人の役割を、現役を終え大学を卒業する日まで実行し続けた。そう考えれば、小林さんの控えめな行動、静かに言い聞かせる言動のほとんどを理解できるように思う。5年生のイラン遠征参加もそう考えれば、理解し易い。後輩の中山主将の前には出ず、わたしたち新人の面倒をみながら、チームのコーチ役としての役割を黙々とこなす。中山リーダーの良き相談相手としての立場を貫いた。無事にイラン合宿を終えて、横浜港へ帰国したおり、小林さんの奥様の胸に赤ちゃんが抱かれていたのをみて、私は何とも言えない安堵感をもったのを記憶している。郷里の大阪へ帰ってからは、毎年お正月には、奥様のお書きになったものだと思われる素晴らしい文面の年賀状が楽しみだった。 平成19年からは、山岳部の活動を背後から応援し指導するOBの組織、稲門山岳会の幹事長として長きにわたりご活躍をいただいた。いつしか時は流れた。昨年6月、中山さんから小林さんの見舞いに行くので、とお誘いがあった。長くわずらわれていることは聞いてはいたが、その時がきたかと覚悟をさせられた。上京して、藤原信吉さんの案内で中山さんと3人で、ディズニーランドの近くの介護施設にお邪魔した。車椅子に乗って施設の方に連れてこられた先輩は、うっすらといつものように、笑みを浮かべて握手をしてくれた。私だと分かってくれたようだった。その時はまだお元気そうに思えたがこれが最後になった。まじかに御指導をいただいた後輩として、心からの哀悼の誠をささげ、御意志を継ぎ山岳部の発展のために、微力を尽くさんことを心に誓った。
小林紘司先輩
寄稿者:渡 大治郎 寄稿日:2025/2/28(会報162号転載)
小林さんがお亡くなりになった?信じられない訃報に呆然としました。幾つかの光景を思い出し小林さんを追悼します。私は1971年4月に入部。最初の合宿は山ではなく東伏見でのラグビー合宿でした。山岳部に入ったのにラグビー?誰しも?と思ったものですが、きついながらも早く試合したいと先輩に呟くと「立教東大はともかくOBはすげえぞ」と脅かされました。新人合宿、夏山合宿、実技をなんとかしのいで2週間後、箱根仙石原での対OBラグビー戦。その時初めて小林さんにお目にかかりました。そびえ立つ体躯に縮み上がり、スクラムをめくられた後の記憶は飛びました。懇親会ではしょげる私に「面上げろよ、もっと頑張れ」と気合いを入れられました。
1974年10月11日剱岳真砂沢。小林さんが甲斐駒隊坂田祐次君の事故の伝令で天幕場に来られた光景です。普段着のまま急遽駆けつけられたのでしょう、息を切らせながら小窓隊と黒部隊への連絡撤収を指示されました。4年の私は挨拶もそこそこに平蔵谷を泣いて駆け上がった悲しい思い出です。
昭和60年代、転勤先の名古屋で島山さんのゴルフ会に小林さんは彦根から来られ、ゴルフ初心者の私にコツを教えていただきました。その後は湯ノ山の吉田さんのホテルに行きフォワード同士で盛上がった楽しい頃でした。
2007年4月に私が山岳部監督を拝命、5月に小林さんが稲門山岳会幹事長にご就任されました。山岳部は春山合宿を実施出来なかった危機的状況でした。山岳部を存続して新入生を安心安全に迎えて育成する、身の丈にあった活動に努めることを基本方針として、千野先生、小林幹事長、幹事会、コーチ会のみなさんと連絡相談に明け暮れました。その頃の小林さんのお人柄を表すメールを紹介します。
「渡様 大変気苦労の多いことが続きますが、ご苦労ばかりかけます。(中略)強い者、弱い者、規律に厳しい者、だらしない者、色々な学生が集り、個々にそれを認めた上でより向上しようという気持ちを持って集ったチームが山岳部なのだということを是非教えて下さい。」
稲門山岳会幹事長として2期4年、会の運営もこのメールのようにお考えだったのではないかと思います。読み替えると「会に出る人、来ない人、会費を払わない人、色々な意見を言う人、そういった会員がいて、山岳部を支援する会」が稲門山岳会なのだと。「若い人達が来てほしいよな」と若手目線で会を企画され、2010年の創部90周年パーティーでは前回を上回る若手会員が出席しました。彼らの声を代弁すれば「ラグビーでは怖い小林さんてけっこう優しいんじゃない?」ではないでしょうか。翌年には90周年事業募金が集りアコンカグアに全部員を送りました。リーダーはあの2007年に入部した中山駿さんであり、大半の部員が登頂しました。更に中山さんは2022年に山岳部監督に就任しましたが、これはまさに小林さんの願いが叶った象徴的なことではないかと思うのです。
小林さん 永い間山岳部、稲門山岳会にご支援ありがとうございました。またご一緒したいです。 合掌


