栗田直躬さんのこと

寄稿者:児玉茂 寄稿日:2024/2/26(会報160号転載)

  今となっては珍しい平地林が残る新座市の平林寺を5月に二十年ぶりに訪ねた。その目的は、そこに津田左右吉の墓があることを知ったからである。この情報を得たのは、『津田左右吉全集』の「月報」に栗田直躬さんがこの場所に墓を作ったいきさつを詳しく書いていたからである。

  ご存じと思うが津田左右吉氏は幅広い領域にわたる思想史の研究者で、膨大な著作を残した。早稲田大学の前身東京専門学校を卒業したあと東洋史の白鳥庫吉氏を師事し研究に没頭。大正7年からは早稲田大学で教え昭和15年に大学を辞したが、昭和23年には文化勲章を受けた。その後も研究に没頭して88歳で亡くなる直前まで研究を怠らなかった稀有な人である。

  この津田左右吉氏と深い関係を持つ栗田直躬さんは山岳部の大先輩である。『リュックサック』6号は針ノ木遭難の記録と検討を中心にまとめられたものだが、この遭難にかかわったメンバーの名前が並ぶ中に一人だけ良く知らない名前[栗田直躬]があるので、この号を開くたびに気に掛かっていた。また同号の「山・人・生活」のページにも栗田さんの名前で二つの文が載っている。  

  「年報欄」の登山記録の中から栗田さんの名前を探してみると、昭和2年の針ノ木遭難前7月の夏山縦走、遭難後の捜索が始まった5月の三ッ峠、その年の夏山縦走と穂高岳生活の4回だけである。そして遭難の捜索や追悼式にも名前はないようだ。同行の部員には山田二郎、長島春雄、河合亨、中島博美さんらの名があるが、山行記録を見る限りは目だったものはない。

  栗田さんの文章は、他の部員の書く内容とは大いに異なり、針ノ木遭難そのものを越えた次元の、登山に対する哲学的考察と言えるものである。この時代に限らず若者は”登山の定義”とか”なぜ山に登るのか”を思いつめたり、議論しあったりする傾向があるが、栗田さんはもっと徹底している。稲門の名簿には卒業学部の記載があるが、栗田さんは文学部で、当時文学部出は他に河合亨さんしかいない。6号に文章を寄せた時は大学3年の頃で、山岳部に属してはいたが学業中心の学生だったと思われる。

  『中国上代思想入門』という栗田さん晩年の講演を基にして纏められた著書(2017年刊)があり、編者の書いた「あとがき」に、「・・・第一早稲田高等学院、早大文学部哲学科(西洋哲学専攻)へ進まれた。大学では山岳部で活躍し、昭和四年卒業論文「カントの『実践理性批判』の考察」を書いている。」と記されていた。さらに栗田さんの経歴を追ってみると、「私は西洋哲学専攻に籍を置きましたが、選択科目の中で(津田)先生担当の”シナ思想史”をとっていました。(それは)『荘子』諸篇の原文を批判するような内容だった」とある。(註1)

  この講義は津田の代表的な著作の一つ『道家の思想と其の展開』に通じる内容だったらしい。栗田さんは熱心に講義を聞き、津田先生に私淑するようになってゆく。津田からも「これからシナのことをやっていきませんか」とお言葉をいただいたとある。昭和8年から文学部の助手、14年から講師となり、この頃に文学部から独立した東洋思想研究室の研究員として2年間北京に留学もしている。(その後文学部教授として昭和49年の退官まで勤められた。)

  栗田さんと津田氏との繋がりが深まった有名な”事件”がある。昭和15年2月に『古事記及日本書紀の研究』など日本の古典及び上代史の一連の著作に対して国粋主義者から出版元の岩波書店と共に告訴され、発禁とされた事件である。21回にわたる公判に出廷、17年に有罪となり控訴したが、その後控訴審は開かれず結果として免訴となったというもので、この時代の空気を色濃く反映した出来事である。この件により津田は早稲田大学を辞し、栗田さんは大学の講義を1年間休講にし、特別傍聴人として常に津田に付き添って対応した。津田は弁明書としての「上申書」を詳細克明に記している。(この膨大な、そして興味深い「上申書」は『全集』24巻として残されている)

  栗田さんの津田氏に対する最も大きな仕事は何といっても『津田左右吉全集』全33巻(岩波書店)の刊行であろう。最も身近にいた栗田さんが、膨大な著作物、原稿、書簡類を集め編集の中心となって作業を進めた。全集は昭和38年~41年に33巻として、さらに昭和61年~64年に増補を加えた35巻の第二次刊行を果たした。(津田に関する資料、著作,蔵書類は栗田さんらによって纏められ、「津田文庫」、「津田左右吉伝記資料」として早稲田大学図書館に寄贈されている)

  栗田さん自身の研究対象は津田氏のような広範囲の思想史ではなく、中国上代の思想を中心テーマにしていた。栗田さんは師である津田氏と同様に学問一筋の人であったらしい。栗田さんの教え子たちによる評価は、「中国思想に対する見解・評価は津田とほぼ同じであるが、諸思想を批判して概念規定を特に厳密にした点では、津田説をさらに深めたものであったといえる。」とある。(註2) 主著とされるのは『中国上代思想の研究』(1949年)、『中国思想における自然と人間』(1996年)である。平成10年(1998)に長寿を全うし95歳で亡くなられた。早稲田大学東洋哲学会の紀要『東洋の思想と宗教』16号(1993年)には栗田先生の経歴、著作目録が載っている。

  栗田さんが亡くなられた後に随筆などを纏めた私家版の遺文集『一片の冰心』があり、その中に80歳頃の横顔のスケッチを見つけたので添えておきたい。

 冒頭に記した津田氏の墓所は、周囲の墓石群とは異なりその一角だけ叢林に囲まれていた。その津田氏の石棺を象った墓所の隣の区画に、小さな五輪塔と栗田家と刻まれた石標があった。後に調べると、やはりその場所が栗田さんの墓所であった。

註1 第二次「津田左右吉全集」月報8 栗田直躬「思い出」(1)
註2 『中国上代思想入門』あとがき

栗田さん自画像

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